今の話題、あとで思い返す時に色々な論点が交錯してて覚えてなさそうなので
メモしておく。
あと、自分の思考の整理。
最初のツイートはよろしくないということは念のために書いておく。ここはブレないです。
「日本」概念
正直雑だなぁとは思ったけども、専門の室町時代の行政等々の分析に「日本」概念はあんまり関係ないと思われるので、この観点から研究者の適性が不適格という指摘等々について、あまり研究そのものには関連ないのではという観点で眺めていた。
(もちろん「日本」という言葉、または「日本という国」「日本人」辺りの言葉に敏感であることは望ましいとは思いますが)
いや、自分の好きな話に戻ると「ビザンツ」概念または「ローマ」「帝国」に詳しいかどうかと、ビザンツ研究者としての資質、大して関係無いのでは?という感覚史学史とか関係史等々なら必須でしょうが、と自分は考えるのだけど。
どうなのだろうか?別に確信はない。
「日本」嫌いなのに~なぜ研究してるのか
別に好きに研究すりゃいいじゃんという感想しかない。
「好きじゃないなら研究するな」とは取れなかったが、そういった危惧を覚えた方もいた模様。なんだろう、ここら辺はやはり個人への印象が認識を変えるのだろうか。
それは別として、網野氏への敬意がないとか、軽率、そもそも雑などの批判はその通りだと思う。ただ、比較的早く撤回、謝罪されてたのでそんなにというところなのだが。
その後の、普段通りのエゴサーチRTはちょっと挑発に取られてもおかしくないと思うので燃えるべくして燃えたと思う。
ただ、それをおいても、唯物史観とか歴史修正主義者とか、右翼、ネトウヨ云々あたりの雑な批判(書かれていない批判を裏に読み取って行われたものの一部)は流石に牽強付会でしょうという観点で色々書いた。
個人的な趣味で江戸期の打ちこわし関連の書籍、論文、日記資料は色々あさってるんだけど、論文等々で濃淡はあるが、階級闘争史観に彩られてる奴、多くあったように思います(論文はあまり時系列を見て読んでないので古臭い論文だったのかも)
特に仮説から外れた例外事例の処理の部分には違和感を覚えていました。
ただし、だからと言ってその論文なり思想を否定したいわけではない。一部分にたいして、他はその通りと思うが、ここは本当にそれでいいの?くらいの疑問点。
別の話ですが、ここら辺の打ちこわし等への美化がアメリカで起きたBLM関連の暴動の際に日本人を称揚する言説に回収されていたのは皮肉と同時に呆れ果てた記憶があります。
打ちこわしの件
— modestia (@modestia_) 2020年6月9日
同時代人の記録として、『燕石十種』に記述があるが、
当初は盗みをせず、ただ米や貴重品を破壊し川等に投棄するだけなのだが、途中より増長して首謀者が脅迫を始めたり、略奪を行う、またはいずこからか盗人が現れて統制が取れなくなっていく経過が書かれている。 pic.twitter.com/LXCqZih9en
あと史的唯物論関連の話題は単純に勉強になった。文芸批評の理論とかもまた読まないと。
まぁ、アカンのは判るのだが、研究者だって変な方向に口が滑る時はあるだろうしそれなりに寛容で行こうよ(出来るとは言ってない)
— modestia (@modestia_) 2021年3月15日
そういえばこの度の唯物史観やマルクス主義歴史学の話題で思い出したけど
— modestia (@modestia_) 2021年3月16日
未だにビザンツ界隈で話の枕で言及されるギボン氏という巨人を思い出した。
逆に言うとギボン読んでるでしょう?とかギボン種にした歴史観には触れているだろうという含みがあるわけで、日本史に置いて、マルクス主義的な世界観は割と浸透してるので、新書の枕になるのは当たり前というか、当然の配慮よな。
— modestia (@modestia_) 2021年3月17日
史的唯物論的な、生産手段を重視する立場から時代区分するのはその研究上の要請であり、その歴史理解の上で重要だけど・・・。
— modestia (@modestia_) 2021年3月17日
時代区分に関してはやっぱりやめた方がいいとしか思えないなぁ。
あ、生産手段からその歴史を腑分けするのは普通にアリだし、面白いと思いますが、それを日本史の教育とかで区分として使うのは、位の意味です
— modestia (@modestia_) 2021年3月17日
まーしかし、自分がどう認識し、意識し考えていたか、と、どう感じ、調べ直し、意見が変わったか等々を思うと勉強になったなぁという感じだ。
— modestia (@modestia_) 2021年3月17日
先日からのあれで、『オリエンタリズム』のバーナード・ルイス批判の部分を読み直してみた。昔(15年前)は感心して読んでた気がするが、今読むとなんか雑だなぁという感覚を覚える。そういう解釈は可能と思うが、いささか根拠付けとして自分に引っ張りすぎで薄弱かなぁと。 pic.twitter.com/u3uHomYB6J
— modestia (@modestia_) 2021年3月17日
亀田先生と北村先生の件は正直、あほらしいですね。双方雑だったと思います。
沈静化したのかと思ったら、
— modestia (@modestia_) 2021年3月17日
クソ雑な批判に、雑な対応で、第三者巻き込んで劇的に燃えてるのは正直しょうもなさ過ぎて言葉がない。
なんにしても、Twitterであんまり気を張るのもどうかと思いますが、ちょっと燃料を投下し続けるのはアレかな・・・という。自分はまぁ、実際の友人数名を除けば全く知らない人でほぼ絡みもなく、好きにつぶやいてるだけなので仲間も味方も取り巻きもいないけど、いると大変そうだなとは思う。
(むしろ一部のフォローバックの人以外がなぜフォローしてきているのか謎)
ついったは、ぼっちでやらないとダメだよね。仲間・味方・取り巻き、そんなのができてしまうと、身動きできなくなる。邪魔。誰ともつるむことなく、独り言を毎日150以上ツイートする(大半がRTだけど)ツイ廃の私を見習いなさい。
— 春田晴郎 (@HarutaSeiro) 2021年3月19日
呉座先生関連は・・・擁護できはしない。同時にオリンピックの広告問題がありましたが、あちらには割と同情的(アイデアを出す時は、倫理にもとる行為も含めて出しておいた方がよいという考えなので、アイデア自体が詰まらんのは「そう」と同意しますが。)
だが、こちらは・・・。
自分を改めるきっかけにもしたいと思います。なんか絶対やってると思うんだよなぁ。
なんとなく思い出すのは某院生のもめ事の際に、どうもパワハラらしきことを言ってるらしいのが想像されましたが(フォローしてないので見えない)、親しい仲だからあの程度はOKなのだろうなぁ、位の感覚であった。
長いなぁ。まぁ、こんな感じ。
思い出したりしたことがあれば追記や修正します。