池塘春草夢

長文になるときに使う、テキトーに。

デモの思い出

 昔、なかなか強硬な主張(国体に関する)を行う左翼系のデモを間近で見たことがある。


 とある公園で公演を行った後デモ行進をする。というタイプのもので、初めて本格的に見たデモであるともいえた。
単純に彼らの主張が聞きたくて会場の公園で少し離れて話を聞いていた。


 いつの間にか入り口がひとつ以外警官隊によって封鎖され、その周りは右翼に包囲されていた。
外からは怒声が聞こえてくる。外に出ることができなくなったので仕方なくデモ行進にまぎれて公園の外に出てしばらく行動を共にした。警官が居なければこのデモは恐らくは公園から出ることすらできなかっただろう。


 デモの作法、シュプレヒコールだったり音の出し方、右翼の街宣車とその構成員、圧力のかけ方、場合によってはけんかの売りかた、警官隊の警護の仕方、何もかもが目新しくて恐怖より興味が打ち勝っていろいろ動き回っていた。


 そうしていると隣に居たおばさんは「危険だから行列から離れないように」と僕に言った。
預言だったかのように先頭のほうに右翼が突っ込んで暴力沙汰になった。警官が両方を分けようと向かっていき引き剥がされる。
そしてスピーカーから「警察はデモを守らない!」という声が聞こえてくる。すぐにそれを復唱する声も聞こえる。どうやらこのデモでは日常茶飯事なのだろうと想像された。


 続けて国家が暴力装置である旨の主張が聞こえてくる。それに加えて警察はわれわれが暴れれば逮捕するが、このデモを妨害しようとするものを捕まえず、われわれを守らない。との主張も聞こえてきた。
 そして、そうであるからこそ、この「国体」は打破されねばならない、と。

 
 この主張に僕はとても混乱した。と同時に限りなく納得した。つまり、どのような圧力団体も、どのような主張の中身であれ、言っていることは変わらないということだ。


 1.われわれの不利益は打破されねばならない。
 2.社会に付与された諸々の権利や権力はわれわれの便益のために用いられねばならない。


 それ以来誰かの主張を聞くたびに、考えることはひとつだけになった。
社会全体の利益と勘案してその圧力団体の主張は+が-を上回るかどうか、ということ。
そう考えて世の中を見渡してみると、世の中は意外とよくできた構造物だった。


 それ以来僕は漸進的な社会民主主義者として存在してきたと思う。


 

(追記)
 インターネット上で公開しておいてまさかブクマがというより読んでる人が居るとは思ってなかったのでちょっとびっくり。

 本題。kyo_juさんのおっしゃるとおりで、この文からでは1はまだしも、2にはなりません。


この話は7年前のことで、当時1.2.という感想を持ったということを思い出したので個人的な記録を兼ねて書いたものです。2についてはこのデモ以外の要素を含めた感想だったはずで、この文章の書き方はまずい。

 はっきり思い出せないものの、ちょうどヴァイマル期ドイツの政党の私兵なんかを調べてたころなので、そこらへんからの発想だったような。

 というわけで、さしあたり2.は取り消し線を入れておきます。もし当時の思考を思い出せたら追加します。