池塘春草夢

長文になるときに使う、テキトーに。

『世界』no.957 p.42-53「未完の国民、コンテスタブルな国家」memo

いろいろ読み返してみてメモをしておく。

 

この解説の前提が最初の2pほどで開示され、日本におけるメディアの報道の傾向と批判が述べられるのだが、イマイチ理解できない。

 

"戦争のバランスのとれた実像が日本で放送されているわけではない"

と書き、日本における情報の西側との同調以外ない現状の偏りについて説明をするために以下の事例を取り上げる。

 

"3月27日時点で、ロシア軍は、キエフ攻略を諦め、ドンバス防衛に集中するよう作戦を変えた」といった誤報がなされる(その後、露軍は確かにキエフ近辺から撤退したが、それは二九日の和平交渉を受けたもので、二七日以前に決定していたというのは事実でない)。"

 

これが西側報道の誤りを指摘する文になっているのだが、この西側の分析と報道はロシア側の3/25のタス通信上のロシア軍の発表が元ネタです。

www.nikkei.com

その発表はドンバスの防衛ではなく、ドンバスの解放(つまり攻撃)を作戦の主眼に置くという報道であり、それと当時のキエフ攻防の進展、すなわち3月の下旬にはウクライナ側の反攻が目立つようになり、24日の時点でウクライナ側がロシアの占領地の8割の奪還に成功しているというウクライナ当局、やアメリ国防省などの見立てを総合して、西側の報道は

「ロシア軍は、キエフ攻略を諦め、ドンバス方面に注力するよう作戦を変えたとみられる

という報道を行うという経緯になっていて、それなりの批判検討をしたうえでの報道になっています。

その後、停戦交渉に先立つ28日にはキエフ攻防の激戦地イルピン市長がイルピン全域の解放を宣言することとなります。

 

キエフからの撤退を29日の和平交渉のロシア側の手土産として著者は書いており、これより前に方針転換した"事実"はないと書いている。

 

これ、誤報かい?そもそも断言しているメディアなんてあんまりなかったで。

 

まぁ、仮に事実はなかったとして、現状の戦況が反映される、すなわち事実の追認に過ぎない29日の和平交渉の合意で”事実”が発生したとして何の意味が著者に存在するのかは正直疑問というよりほかはない。

 

そして、メディアが偏っている事実としてほかの国の優位性を挙げていく、

"しかし欧米には、たとえばFOXニュースのタッカー・カールソンの様な(中略)対抗言論がある"

 

対抗言説は重要ですしそれは同意するんですけど、ピックアップしてくるのがタッカー・カールソンとか、後段でてくるrepublic worldとか言われるとですね...

 

ちな野次馬感覚で言うとロシア疑惑で一貫してトランプを擁護していた人ですね。

ja.wikipedia.org

んで、前提を超えて後ろの方でrepublicworldの報道を評価してるんですけど、こちらも正直かなり右寄りのメディア"でも"ありましてですね...

アメリカに関する報道では親トランプ的(利害が共通する)な報道をする傾向にあります。

www.republicworld.com

で、正直ここら辺並べるなら、日本にもタッカー・カールソンレベルの話なら橋下徹氏とか佐藤優氏、鈴木宗男氏などの対抗言論が存在するんですよね。

 

著者のこと正直全然知らないんですが、割と右寄りの方なんですかね?

 

とまぁこんな感じのことを書きつつ

"以上のような前提から(後略)"

と本論に移っていくのだが、正直前提大丈夫か?という感覚がぬぐえない。

 

そして本題については、比較できない部分で隙あらば反米を入れてくる以外はまぁ勉強になるのではあるが、ここで述べられていくのは、トッド氏が文芸春秋で展開したようなウクライナはまともな国家ではないという話と同調するような流れで、ウクライナ概念の範囲を狭める話が続き、それを受けての和平に向けての結論部分で、

"そもそもウクライナNATO加盟は現実的でなく、妥協しても失うものはない"

とし、クリミア、ドンバスの争点について、

"クリミアが将来戻ると信じるウクライナ人はあまりおらず、ドンバスがウクライナに戻れば文字通り爆弾を抱え込むようなものなので、ここでも、ウクライナが失うものは実はないのだが、国内外からの圧力が凄まじい"

 

と和平への展望を語る。

そりゃ経緯からしてクリミアが戻ると信じる人がすくないのは当然であり、

その事実から"ウクライナが失うものがない"かどうかを認定できるかというと、正直なんの因果関係もない。

それはドンバスについても同様である。

 

つーか、仮にウクライナ(国民)という概念が作られたもので、その概念がカバーする地域が未だ領域のすべてでなかったとして、結論としてだから実は失うものはない、とか言われてもですね...

 

論理性の欠如としか思えないが、著者が言語化していないだけでそうといえる理論の様なものがある、というのであれば正直勉強になるので聞かせてほしい。

もちろん、この件については別の場で、と書かれているのでどこかで後日説明があるのだとは思うが、現状頷くのは難しいなぁ、と。

 

正直自分の読みに自信があるわけでもないのでそれ、そういう意味じゃないのでは?みたいな部分があれば教えてほしい。

 

どーなんですかねぇ、これ。