池塘春草夢

長文になるときに使う、テキトーに。

にげること。


新生

ーアボーナよ、修道僧とは、この世からの逃亡者だとおっしゃいますが......。

ーそのとおりよ、わしらは、この世のしがらみからの逃亡者にすぎんのじゃよ。政治や権力や俗世間の名誉だけじゃあない。この世が無理やり押しつける、ありとあらゆる責任、義務!自分への絶望もあれば悩みもある。そうしたすべてからの逃亡者、それが修道僧じゃ!

ーアボーナ、ほんとうに、それだけなのですか。

ーほんとうに、それだけなんじゃ!そして、それで十分なんじゃよ。

ー背後に、どんな理由が隠されていようがですか?

ーそんなことは大した問題じゃない。ただ、逃亡者にも、ひとつだけ言い分がある。
それをわしは、天の故郷に帰ろうとする心と呼んどるんじゃよ。あくがれと言ってもよい。すべての逃亡者の心の底には、きっとそれがある。それがわかるのは、涸れ谷の洞窟にこもって、一人になり切ったときなんじゃ。さめざめと、涙がこぼれてくる......。この涙は、決して、弱い心の涙じゃない。

ー弱い心の涙ですって?

ーさよう、涙には、弱い心の涙がある。だが、わしがいうのは、そうではない。古い自分をきっぱり脱ぎすて、無一物になるために泣くのじゃ!そして、涙のなかから新しい人間に生まれかわる......。無一物のなかに、無限の宝が隠されていることを知る。

ーアボーナ、ほんとうに、できるのですか?生まれかわることができるのですか?

ーできるとも!ほんとうにできる!

山形孝夫「砂漠の修道院」新潮選書 1987 p89-90


日本に必要なのは逃げ出した人間を受け入れる共同体、もうひとつの社会ではないのかね。
もちろん、その場所もまたユートピアでは決してないのではあるが。